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当然のことのように考えているかもしれないが、これができるようになるまで、最低3ヶ月は必要とする。つまりそのくらい今の生徒は授業が聞けていないのである。「授業を聞く」というのは、黙って座っているだけとは根本的にちがう。人の話を聞くというのは、その人の思考と自分の思考とをシンクロ(同調)させることであり、話し手のスピードにあわせて自分自身の頭の中に聞いたことを整理して理解していくことなのである。
従って、話し手も聞き手の理解力を十分に知った上で話すスピードを調整しなければならないことは当然であるが、聞き手は話し手の意図する内容を常に自分自身の言葉に変換しつつ整理をすることが必要なのである。 |
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ここで言う課題とは反復演習として出された宿題などのことを指しているが、ここで気を付けなければいけないのは、授業中に出された指示をきちんと守って反復演習を行うことである。途中過程の計算法などはほとんどの場合、きちんと残すように指示を出しているし、もちろんマル付けを行うときもその基準が守られていることを最重要視する。従って、答えが合っていても途中が「気に入らなければ」そこからバツとみなして書き直しを命ずることになる。
学校への提出物もそうなのだが、提出の期日を守ることはもちろん、丁寧な字で自分の力で取り組んだ物は当然高い評価を得ることになる。逆に提出日過ぎても出さなかったり、やっつけ仕事で解答をまる写ししたり、途中を飛ばしたりしたような提出物では、評価する側の神経を逆なでするばかりである。「自分の1冊くらい先生も適当に見ているに違いない」などと思っているとすれば、とんでもないことである。
提出物は実におしゃべりである。だからこそ宿題や課題に対しては誠実に取り組まなければならないのである。 |
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一を聞いて十を知る人間が塾に来る必要があるか?あえて必要はない。つまり塾に通う人のほとんどは、一を聞いて一を知る人(まれに二を知る人もいるし、半分しか知らない人もいるが)が集まっていると見てよい。その場合、教える側としては同じことを何度も説明するのは時間の無駄であるので、「教えたことは身につけて欲しい」と思うのが人情である。そのために反復演習のプリントなどを宿題に出しているのである。だから授業があった日は、5分でも10分でも構わない。その日に習ったことを見直す時間を持って欲しいのである。
よくある話だが、塾から帰ってそのカバンに次さわるのは、その次の塾に行く日の直前であり、結局前回塾で習った内容をすっかり忘れたまま塾に行くことになる。これでは進歩しないのは当然である。うちの塾は授業中によく当てる。そのためかごく一部にその日進むところを「予習」してくる生徒がいる。しかしたいていの場合、答えだけや和訳だけを覚える程度の予習であるために、「なぜそうなるのか」とか「意訳ではなく、単語に忠実に訳して」とか言うとほぼまちがいなく玉砕することになる。
だからうちの塾の場合、予習は意味がないのである。わからなければその場でわかろうとあがけばいいわけで、体裁を繕おうとする姿勢がいけない!間違えて、転んで、恥をかいて、それからそれを復習して身につけてもらえばいい。ウサギとカメでウサギの才能が悪いとは思わないが、カメにはカメの戦い方があるわけです。 |
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わからない問題に出会ったとき、それをあきらめてしまう人は別にして、「わかろう」とすると2通りの道がある。一つは答えの出し方(解法)を覚えること。英語ならその文の訳を暗記すると言ったものである。最近こんな勉強法でも学校の試験程度は何とかなるケースが多いため、一見成績が優秀な人にも結構見られる。総じてこのタイプの人は非常に記憶力がよい。よすぎるために一度解いた問題を覚えてしまうほどである。しかし全く同じパターンでないと手も足も出なくなることがあり、本人は「応用が苦手」と勘違いする場合もある。
もう一つはなぜそのように解けるのかをこだわるタイプ。ただこれは往々にして時間がかかるため、定期テストなどではあまりよい点が取れない場合もある。うちの塾の授業は後者の生徒を育てることを念頭に置いている。より本質的な基本事項の意味を理解することにより、少々ひねった問題に対しても対応できる「柔らかい頭」を持ってもらおうというものである。
小学校高学年から中学生の時期は、人生のうちで最も記憶力が高まる時期である。しかしその力は英単語や社会の用語などに使って、理解することで対応できる分野は過程にこだわって欲しいのである。実はこの過程を重視する際に必要な論理力も中学生くらいから伸び始めるのである。 |
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本当に理解ができているかどうかは、他の人に説明することができるかどうかでわかる。何となくおぼろげにしか理解できていない人の説明は全くわからない。ここでまた大切なのは、習ったとおりに覚えてしゃべるのではなく、自分自身の言い方に言い換えができるかどうかなのである。質問者がなにを聞きたいかによって言い回しを変えることができれば、本当に理解ができていることになる。
また、最近は携帯電話のメールの影響か、単語だけでしか表現できない人もいる。言葉を駆使して意思疎通をするのが面倒くさいためか、自分のことを理解してくれる人の中だけで留まっているためか、語彙を増やす機会を失っていると思う。人である以上、言葉で意志を伝えなければならないときが来る。その時には必ずしも自分の話を好意的に聞いてくれる人とばかりは限らない。その時のために、今訓練すべきなのである。 |
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自分の弱点を正面から見据えることは結構難しい。特に最近は学校や家庭で叱られた経験がない生徒もいるので、「おまえの弱点はこれだ」などと言うとそれだけでへたってしまう場合もある。しかし誰も完全な人間はいないし、今の自分よりもより高いレベルを目指せばこそ、必ずや自分自身の至らないところに気がつくものである。その時逃げるのか向き合うのか。勇気を持って向き合う者を私は応援したい。 |
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受験勉強にはライバルがいる。一番手強いライバルは他人ではない。自分自身を甘やかしてしまう自分なのである。「このくらいでいいだろう」「明日からやればいいや」「自分としては一生懸命やっているつもりだし」などなど。あげればきりがない。
ときには甘やかしていいときもあろう。ただ、いつもそうでは問題である。何か事をしようとしてうまくいかなかったとき、すぐ誰かのせいにしようとする人がいるが、そう考えること自身が自分の甘さに負けているのだ。負けるな、とは言っているが、余程自覚している人でもおそらく10回のうち5回はまず負けてしまう。私もよく負けている。どこで踏みとどまれるか。それがためされているのだ。 |
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教える者と教えられる者。口のきき方に始まり、指導された内容を身につける努力をするのは当然のことというのは遠い過去の常識のようだ。これには師弟という関係を嫌う「先生」がいる事も原因であろう。教師も生徒から多くのことを学んでいるのだから、対等な立場であることが理想だと思っていらっしゃるようだ。私に言わせると、それは単なる言い訳であり「逃げ」だ。あくまでも師は師であって、生徒を教え導く立場に立たねばならない。そのためには自分自身により厳しくあらねばならない。その責任から逃げているだけではないか。先生は一生懸命先生らしくあろうとする。生徒は生徒らしくあろうとする。それこそが互いに高め合う事になると思う。家庭においては親子関係も同じである。 |
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同じ内容なら「努力する意志のある者は集え」でも言いように思われるだろう。そのほうが前向きで柔らかい表現かもしれない。しかし、卒塾生でこの言葉を浴びせられなかった者はおそらくいないであろうと思う。そのくらい何度も言う言葉なので、あえてこの表現にした。
では本気ではないのかというと、本気である。こう言われてやめるような者はやめた方がいいと心底思っている。「やる気が出るようにしてほしい」という方には「できません」と言う。やる気は本人が持ってくるもので、これは教えるものではない。 |
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止まない雨はない。今日できなくても明日にはきっかけが掴めるかもしれない。現実を見つめることは重要であるが、安易な安全圏に甘んじて欲しくはないし、自分自身の可能性に悲観的になって欲しいとは思わない。ほめて伸びる生徒もいるだろう。
しかし、私はほめない。若者は現実を見つめつつも、踏まれても踏まれても立ち上がる麦の芽のように、どんなときにもプラス思考であってほしい。本当の夢ややる気というのは、どんなことがあっても失わないもののことを言うのである。 |
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